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生島淳の取材日記 「フェンシング男子フルーレ 松山恭助」

 私が通っていた宮城県立気仙沼高校は、フェンシングのオリンピック選手をふたり輩出している。

ひとりは、ロンドン・オリンピックの男子フルーレ団体の銀メダリスト、千田健太選手。もうひとりは、千田選手のお父さんの健一さんだ。ただ、お父さんは1980年のモスクワ・オリンピックの代表で、日本が参加をボイコットしたため、ひのき舞台を踏むことは出来なかった。

ただし、健一さんは高校の教員となり、フェンシングの指導に情熱を注いだ。
高校の練習場は、「道場」と呼ばれており、フェンシングというヨーロッパのスポーツであるにもかかわらず、どこか「武士道」の香りがした。

 北京オリンピックでは、TBSラジオのレポーターとして取材したが、銀メダルを獲得した太田雄貴選手(現日本フェンシング協会会長)にインタビューした時のことが忘れられない。
私が「気仙沼出身なんです」と話すと、目をキラリと光らせた。太田選手と千田選手は同級生でライバルだから、気仙沼という言葉に反応したのだろう。

太田選手の話は面白かった。

「国際大会で勝つためには、観客を味方につける『味つけ』が必要なんです。追い上げるだとか、見栄えだとか、観客を味方につければ、審判の判定にも影響を及ぼしますから」
武士道の国から、とてつもない戦略家が生まれていたことに舌を巻いた。
勝負どころでの神がかったパフォーマンスは、決して偶然ではない。
奇跡を起こす準備をしていたのだ。

 そのメダリストの系譜に連なろうとしているのが、松山恭助選手だ。

東京・東亜学園高時代にインターハイでは団体、個人フルーレともに3連覇。大学2年の時のリオデジャネイロ・オリンピックでは、トレーニングパートナーとして参加するなど、日本フェンシング界の期待を背負っている。

ところが、練習相手を務めてきた太田選手が1回戦で負けてしまった。

「太田さんの『味つけ』は天才的です。リオでは、オリンピックという舞台での勝つ難しさも学ばせてもらいました。2020年に向けては最高の状態で臨みたいですし、その先のパリ・オリンピックまで第一線で続けたいですね」

話していると、生真面目さが伝わってくる。練習でも高い緊張感を維持できるタイプだ。

これにクリエイティブな戦い方がより備わってくれば、日本の「顔」になるに違いない。

生島淳 (いくしま じゅん)
 1967 年宮城県生まれ、早大卒。五輪は1996 年のアトランタ大会から取材。著書に「箱根駅伝ナイン・ストーリーズ」、「エディー・ジョーンズとの対話」など。